走馬灯のようにめぐる川上緑桜先生と
切瑳琢磨した日々
私の印象に強く残っているのは、なんといっても、川上先生(*1)との出会い、そして写壇地懐社写真クラブでの活動です。
川上先生は一人で出かけるのが億劫なのか、寂しがりやなのか、撮影に行く時はよく声をかけてくれました。先生は私の1つ年上だったのですが、ライバル心を燃やしとにかく切瑳琢磨しました。「リョクチャン」「カズチャン」と呼び合う仲でしたが、白鷺を撮り続けた先生の写真には、日本画を描くようなイメージと優美で繊細なタッチがありました。白鷺の表情と躍動感あふれる動きの一瞬をとらえる目は、後にプロとして生きていく、素養を十分に感じさせてくれました。

先生が発表された「白鷺」「自然の中のアーティスト」などは海外でも高い評価を得ており、いまでも日本の写真界に大きな影響を与えています。

その川上先生が今年のはじめに、永遠の眠りについてしまったのです。享年75歳でしたが、あまりにも早い死が惜しまれて、悔しくて、寂しくて仕方がありません。川上先生は私たちアマチュアカメマンの希望の星であり、偉大な目標でした。いま、心から哀悼の意を捧げたいと思います。

*1 川上緑桜氏プロフィル
1930年大阪生まれ。76年富士フォトコンテストグランプリ受賞記念個展を東京、大阪、福岡で開催。アメリカモダンフォトグラフィに白鷺の写真が特集され、世界的評価を受ける。白鷺をはじめ、アフリカの動物および風景、人物を専門に撮影。主な写真集に「白鷺」「自然の中のアーティスト」「白鷺幻想」「母なる台地アフリカ」などがある。

若狭先生を「犬」の写真で
感動させる
私とカメラの出会いは小学生までさかのぼります。叔父が映画の助監督をしていたので、小さい時から暗室で写真を現像するのを目の当たりにしてきました。現像液に印画紙を浸して、徐々に画像が現れてくるときの感動は、小さい子供の心を別世界に運んでくれたものです。

中学生のころに、当時ではなかなか手に入らなかった、蛇腹式のカメラを買ってもらい、それで撮影するようになってから、写真の魅力に取り憑かれました。16、7歳のころには本格的に写真を撮影するようになっていました。

そして地懐社の写真クラブに入り、多くの優れたカメラマンと出会ったのです。大先輩である若狭成价先生(*2)もそのお一人でした。先生は「犬」をテーマによく写真を撮られていたのですが、いつだったか、私が犬の収容所で撮影した写真をご覧になって、先生が涙を流されたことをいまでもよく憶えています。「若狭先生を写真で泣かせた山田は大したものだ」と周りの会員から誉められたものですが、先生は元来、犬がお好きで、私が撮影した犬の哀れな姿を見るに忍びなかったのではないか、と今、回想しています。

ともかく地懐社では優秀な先輩たちに囲まれて、緊張感を保ちながら、写真と葛藤できたように思います。

*2 若狭成价氏プロフィル
1890年徳島県生まれ。大正中期から写真一筋に生きてきた人。1924年(大正13年)に地懐社に入会。25年大阪市東区にて写真館を開業。浪速倶楽部の大先輩、横尾重之先生から写真の技法を学ぶ。多くの写真展で入選を果たす。41年(昭和16年)に光画研究会(後の若葉会)を設立。57年に全日本写真連盟関西本部名誉会員になる。地懐社元会長、若葉会会長を務める。

自分のテーマを持って
緊張感を忘れない
写真を取り巻く環境は、ここ数年で激変しました。アナログからデジタルへという流れはとどまるところを知りません。フィルムでの撮影が珍しく感じる時代も、もうすぐそこまで迫ってきている気もします。デジタル全盛時代になっても、いい写真は楽に撮れるものではない、と私は思っています。少し、狂気じみているかもしれませんが、川上先生と切瑳琢磨していたころ、私は食事中も風呂に入っている時も、床に入ってからも、それこそ四六時中写真のことを考えていました。どうしたら自分の思いどおりに撮影できるのか、どうしたら人に感動を与えられる写真が撮れるのか、と。

関西と関東の写真のテイストは大分違うといわれていますが、写真のテーマは無限だと思います。人の真似はしない、自分の味を出す、見た人の心に響くような写真を撮る、いつも緊張感を持って撮影する−−−私の50年の経験からアドバイスできるのはこんなところです。